山車人形の製造と修理修復は、ワンランク上の仕上がりで有名です。
渋川市金井南町の山車人形「牛頭大王・ごずだいおう」
八坂神社の牛頭大王図や各地にある像では
山車人形には難しいことでしたので、ごらんのようなイメージで制作しました。
山車人形との製造と修理は、経験豊富で日本一の技術を持つ当工房で!
- 牛頭大王
- 山車人形
- 抜群の仕上がり
渋川市金井南町の山車人形は「ごずだいおう」呼びます。
金井南町で山車を制作するするに当たり、山車人形を何にするかを論議され、町内にある八坂神社の御祭神である「牛頭大王・ごずだいおう」が良いということとなりました。
京都の八坂神社と同じ神様ですが、 以下「Wikipedia」の説明です。
牛頭天王は、京都の感神院祇園?(現八坂神社)の祭神である。
『祇園牛頭天王御縁起』によれば、本地仏は東方浄瑠璃世界(東方の浄土)の教主薬師如来であるが、かれは12の大願を発し、須彌山中腹にある「豊饒国」(日本のことか)の武答天王の一人息子として垂迹し、姿をあらわした。
太子は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛の頭をもち、また、3尺の赤い角もあった。太子は王位を継承して牛頭天王を名乗るが、后を迎えようとするものの、その姿形の怖ろしさのために近寄ろうとする女人さえいない。牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになった[5]。
3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、そのとき一羽の鳩があらわれた。山鳩は人間のことばを話すことができ、大海に住む沙掲羅龍王(八大龍王)の娘のもとへ案内すると言う。牛頭天王は娘を娶りに出かける。
旅の途次、長者である弟の古單將來に宿所を求めたが、慳貪な古単(古端、巨端)はこれを断った。それに対し、貧乏な兄の蘇民將來は歓待して宿を貸し、粟飯を振舞った。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民に授け、のちに蘇民は富貴の人となった[5]。
龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女を娶り、8年をそこで過ごす間に七男一女の王子(八王子)をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王は八万四千の眷属を差向け、古単への復讐を図った。古端は千人もの僧を集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが、法師のひとりが居眠りしたために失敗し、古単の眷属五千余はことごとく蹴り殺されたという[3]。この殺戮のなかで、牛頭天王は古単の妻だけを蘇民将来の娘であるために助命して、「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ、末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示した[5]。
以上が、『祇園牛頭天王御縁起』の概要である。
山車人形の新規製造と修理は「工房・こうげつ」にお任せください。
当工房は大量生産ではなく、ひとつひとつ丁寧に時間をかけて仕上げています。最近では山車人形の製造と修理の技術は伝承されず、忘れら得てしまっています。
江戸時代から明治大正とかけて山車人形は生き人形の技法として継承されていました。
祭りの主役と言えば山車人形だった時代があります。それが時代の変化や管理運営費用負担などの問題により、山車人形に代わって人間が乗る屋台や、神輿へと移ってしまいました。
江戸型の山車
「江戸型の山車」については<Wikipedia>に詳しく乗っているので引用してみます。
「鉾台型山車」よいう形が江戸型山車と呼ばれるものの中ではもっとも知られ、現在も関東各地の祭礼で見ることの出来るものである。鉾台というのは柱の先に正方形の台を乗せ、その台の四辺にぐるりと幕を垂らし、柱が幕に隠されて布で出来た四角い箱のように見えるもので、この鉾台を二輪の台車に乗せ、台の上には人形等を飾った。
山王祭・神田祭では、神幸祭の進路に江戸各所にある江戸城の城門を潜らなければならなかったが、山車は城門の扉よりも高かった。上にあげた吹貫型山車・万度型山車は色々の飾りを付けた柱を斜め後ろに倒す仕掛けを作って低くし、城門を潜ったが、鉾台型山車の場合は本来鉾台の中心を貫いていた柱を取り去り、代わりに入れ子式に作った立方体の大きな木枠を綱や滑車を使った仕掛けでもって上下にスライドさせて門を潜った。木枠のまわりには美麗の幕を張り、その中心には人形等の飾りを据え、ともに上下させるようにした。すなわちその外観は台車の上に二つの箱を重ね、さらにその上に人形を置いた塔のような形に見える。
江戸型山車についてはほかにも種類があったが、明治に至るまで山王祭と神田祭で引き回されていたのは以上の三種類である。鉾台型山車は東京以外の関東各地の祭礼に伝播し、現在では川越祭などで引き出されている。ただし江戸型山車はほんらい牛に曳かせる二輪の台車の構造であるが、現在では牛を用意して使うことが困難なことから、その多くが人の手で曳く四輪の台車となっている。
江戸時代においては山王祭・神田祭で盛んに引き回され、「祭の花」ともいわれた江戸型山車であったが、明治以降過酷な運命をたどることになる。
そもそも山車を引き回すことは多額の費用がかかり、山車だけ造ればよいというものではない。江戸では山車を曳くのは牛と決まっており、その牛を雇うのに費用が要る。また山車を組み立てその山車を置く山車小屋を建て、引き回すときにはその警護にもあたる鳶職への手間賃、さらにほかに山車練り物に付き従う町役人等の衣服なども用意しなければならない。また山車が傷んだら修理もせねばならず、全体に傷みが激しい場合は全て作り直しということにもなるが、火事によって山車を失うことも度々あった。当時鉾台型の山車1本造るのにおよそ400両から500両ほどの費用が掛ったという。そして付祭(つけまつり)という山車以外の練り物もあり、祭礼には山車練り物以外にも出費がある。これら全てを各町の中でまかなわければならなかった。江戸では「三厄」といって町役人がつねに頭を悩ませる問題が三つあり、ひとつは水道の維持管理、二つには火事、そして三つにはこの祭礼の費用を捻出することであった。
幕末から明治となり、江戸が東京に変わって人々の暮しが落ち着きを取り戻すと、山王祭と神田祭も江戸の昔に変わらぬ賑わいを見せていたかに思われたが、東京の各市街に電線の敷設が行なわれるようになると、それよりも背の高い江戸型山車は電線に阻まれて道を通りづらくなった。これにより各町では次第に山車の曳行をとりやめ、山車の人形だけを各町のお神酒所に飾るようになっていった。しかし電線などの問題もあったことは間違いないが、それよりも上で述べたような山車をめぐる少なからぬ諸費用について、各氏子町が頭を悩ませ、もてあましたことのほうが大きかったのではないかといわれる。それでも何かの祝典の折などにはいくつかの山車が引き出されることもあったが、関東大震災や戦災により、山王・神田の山車に関わるもののほとんどはこの世から消滅し、ごく一部の例外を除いてはその後再び造られることはなかったのである。
群馬県の高崎市には、旧市街だけでも38台の山車人形の乗る江戸型の山車があります。
すべての山車には山車人形が乗っていて、江戸型の山車の数は日本一です。
当工房はそれらの山車や山車人形の製造や修理に携わっているので、古くからの技術を掘り起こして継承しております。
当工房が山車人形制作で一番重要視しているのは、完成した姿の美しさです。
お祭りで沢山の人達に見られる山車人形です。
最近はかなり出来の良く無い山車人形を目にしています。
実績を良くご覧になって、山車人形の製造と修理をおきめ戴きたいと思います。
山車人形の製造と修理・・・一目瞭然・・・ワンランク上の技術で差がつきます。
こうげつの山車人形の製造と修理は、他の追随を許さない日本一の技術です。。
※山車人形は多くの人に見て戴くものです。ワンランク上の仕上がりをご提案いたします。
※修理価格の差は、頭以外の衣裳・胴体・備品などの修理状況によるものです。
山車人形の新規製作と修理復元・・・昭和の時代でNO.1と言われる抜群の技術です!
山車人形の手と足そして付属品の製造と修理・・・ワンランク上の製造と復元は抜群の技術です!
折れたり紛失してしまった指などを復元して修復します。
新規部品の製造の場合でも、製作当時を検証しながら復元いたします。
彫刻の修理と純金箔押しの修復
山車本体の修理修復をいたします。
彫刻の欠損修復や純金箔押しなど、難しい修復が可能です。
金物の純金鍍金と修理修復
山車本体の修理修復をいたします。
金物類の純金鍍金修復や不足品の製造など、難しい修復ができます。
山車幕(緞帳幕)の製造と修理
緞帳幕(山車幕)の新規製造から修理修復なども専門分野です。
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山車房の製造と修理
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